南北朝時代の刀工・来国俊の作で、1メートルを超える大業物ながら、すらりとした細身の美しい刀身であったとされる。
南北朝合戦のおり、南朝の忠臣・阿蘇惟澄(彼と共に戦った菊池武光の刀との説もある)がこの刀を振るって活躍した。
さすがの名刀も乱戦の末に無数の刃こぼれができたが、その夜、惟澄は何百もの蛍が刀身に集まる夢を見た。
目覚めた惟澄が刀を鞘から抜いてみると、刃こぼれが全く消えていたという。
後にこの刀は高千穂三田井家の手に渡ったようで、三田井が豊臣秀吉の家臣・高橋元種の手によって滅ぼされた時の逸話にもこの刀が登場する。
それによると、城が落とされたとき、生き残った
侍の一人が、三田井家の幼姫とこの刀を連れて逃走を図った。やがて夜が訪れ、
侍は茂みに隠れて追っ手をやり過ごそうとするが、そこでなんと
蛍丸がその名の通り蛍のように輝きだし、彼らは追っ手に見つかってしまう。
侍はその場で
姫とともに自害したとも、追っ手に首を撥ねられたとも伝えられているが、それを哀れに思った周辺住民の手によって建てられた祠が、現在も恵良八幡神社として残っている。
その後この刀は阿蘇一族の元に戻ったようで、太平洋戦争まで(阿蘇一族が大宮司を務める)阿蘇神宮に伝えられており、昭和6年には国宝にも指定されている。しかし、G
HQによる終戦直後の刀狩りの中で散逸し、現在は行方不明となっている。熊本県では、この刀狩りで集めた刀にガソリンをかけ焼却後海中投棄しており、その中に
蛍丸も含まれていた可能性がある。