Fellenant

記事名読み
ふぇれなん
力の時代から技の時代への時代の境目にかけて生存したドラギーユ家の人物。
当時のサンドリア国王ルジーグ・R・ドラギーユ(Raigegue R D'Oraguille)の弟であり、爵位と併せて「フェレナン公爵」として有名。

”狼王”の異名を取り自ら戦陣に赴いたルジーグとは正反対の人物で、国王の版図拡大政策(バストゥーク方面への侵攻)にはかねてより異を唱えていた平和主義者とされる。この兄弟の関係性は現在の二人のサンドリア王子にも少しばかり重なるところがあるかもしれない。

歴史的大敗から二年後、バストゥークとの再戦の準備を整えた国王ルジーグが出征した天晶暦693年、フェレナン神殿騎士団を掌握し突如として王都を占拠する。ルジーグ率いる王立騎士団ラテーヌ高原を進軍していたさなかの出来事であった。いかに”狼王”と言えど前後を塞がれては身動きが取れず、王立騎士ヴィジャルタール・カフュー(Vijartal Caphieux)
注釈1
フェレナンの下へ向かった彼はその後、(ルジーグの放ったと言われる)暗殺者からフェレナンを庇って命を落としたとされている。
に王家に伝わる錫を託し王都へと向かわせた。これが意味するところはすなわち、フェレナンに対して王位を禅譲する意思の表明であった。

しかしながらフェレナンは禅譲を受けず、バストゥークとの休戦条約締結を条件にルジーグに投降する。フェレナンの意向もあり神殿騎士団はその罪を不問とされたが、自身は牢獄に繋がれることとなった
注釈2
大監獄ボストーニュフェレナンの乱の翌年に着工された。彼を幽閉するために造られたとも言われている。この目論見が事実かは不明だが、彼は監獄の落成以前に脱獄してしまっておりボストーニュに収監されたかは定かでない。
。こうしてサンドリア王国を揺るがした反乱はきわめて迅速に鎮圧された、かに見えた。

しかし、投獄からおよそ3年後、フェレナンは突如として脱獄しその行方をくらます。その後の天晶暦702年、再び世に現れ王を僭称する。西サンドリアの建国である。これ以後サンドリアは100年に渡り分裂状態、世に言う「二王時代」に突入する。

王位に就くことを一度は拒んだものの、最終的に彼が導き出した結論は祖国を二つに割ることであった。そこには国を分けてでも他国への侵攻を防ごうとした、きわめて強い意志が見てとれる。事実、二王時代の間サンドリアには目だった遠征を行ったという記録はなく、宿敵バストゥーク鎖死病蔓延の後遺症のため戦争どころではなくなった。王国の再統一後は獣人勢力の台頭があったため、第二次コンシュタット会戦クォン大陸史上最後の人間人間の大規模な戦いとなったのである。

なお、二王時代を収束させた”龍王”ランペール(Ranperre R D'Oraguille)はフェレナンの子孫であり、西サンドリアが本来のサンドリアである東サンドリアを併呑した格好になった。このため、現在のデスティン国王(Destin R d'Oraguille)もルジーグではなくフェレナンの子孫である。そんな事情もあるせいか、王国史に残る未曾有の大乱の首謀者であるにも拘らず彼に対する王国民からの評判は決して悪いものではない。

その人物像にはいろいろと謎があるものの、三国が手を取り合う未来を導いた一人であることは否定できないだろう。むしろ彼の行動自体、そんな未来が来ることを確信して動いていたかのようでさえある。
関連項目
Vijartal Caphieux】【稀なる客人】【二王時代

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