天晶暦711年から716年の間に
首府バストゥークで猛威を振るった伝染病。
一人の異国の旅人が、
黄金通りの
宿屋で
石のスープを飲んでいた時に、突然顔を突っ伏して死んだのが、最初の記録である。全身に鎖状の痣が見られたのが特徴であったが、その時点ではさして話題にならなかった。しかし、最初の一人が死んで一週間後に彼が宿泊していた
宿屋の従業員が全員死亡しているのが発見され、これが致死率の非常に高い
鎖死病の本格的流行の始まりだった。
政府は当時まだ国内に少なかった
白魔道士を招聘したり、修道院で配合した薬や
聖水を配ったりしたが、全く効き目が無く、巷に
死人があふれ返り、挙句の果てには「
トーテンタンツ(死の舞踏)」と呼ばれる虚無感に満ちた行進が広まり、
首府を絶望が支配した。
この事態を救ったのが、ちょうど薬草を届けにやってきていた
グスタベルグ地方の山岳民族であった。その中に「
クリークタンツ(武踊)」と呼ばれる、勇壮で躍動感溢れる舞踏の
踊り子がいて、これがたちまち
バストゥークの民衆の間で評判となり、効果があると知った
踊り子達は各地を回って
クリークタンツを披露したことから「
死の舞踏」は廃れることとなる。
そして
天晶暦716年に
アトルガン皇国より派遣された
錬金術師によって偶然発見された
特効薬により、この大流行は終息を迎えることができた。
ときの
大統領ヴィルヘルムは、病を根絶させた
錬金術師と、民衆に活気を与えた
踊り子を並べて称えた。
当時の
バストゥーク共和国は第二次
コンシュタット会戦にて
サンドリア王国を退けその国威が大変盛んであった時代である。宿敵であった
サンドリアは
二王時代と呼ばれる内乱期に入っており止めを刺す絶好機であったが、この疫病による国力の疲弊が激しく、遠征どころではなくなったようだ。悲しむべき歴史ではあるが、
鎖死病の流行がなければ
三国の歴史が大きく変わっていた可能性がある。
何故か
ヒュームにしか罹らない
病気であったため、「
ガルカ魔道士陰謀説」や「
ゴブリン毒兵器説」、「
クゥダフ鉱毒流出説」などが乱れ飛び、後々まで禍根を残す痛ましい事件が数多く発生した。
現在では、
チゴーが媒介する不可視の毒気(
ウィルス?菌?)が原因であったことが有力視されている。