紅茶川事件
天晶暦600年代に、
ウィンダス港で起きた事件。
サンドリア向け茶葉の暴落に怒り心頭に発した庶民・茶摘たちが、抗議のために高級茶葉をモモロ川に投げ込んだ。この事件以来、
ウィンダス港に注ぐモモロ川が
紅茶川(Blacktea River)と呼ばれるようになった。
狩王ドルミリックの時に、
サンドリア王国で俄かに発生した紅茶ブームがその背景にある。
天晶暦600年代の
サンドリア王国は、名高い戦王
アシュファーグが勝ち取った軍事的優勢と、その勝勢に驕らず防御体制を整え、安全保障を(自らの婚姻も有効に使い)磐石なものとした旅王
マレリーヌの善政という遺産を受け継ぎ、史上最も安定した繁栄を謳歌していた。旅王、狩王、美食王と続く500年~600年代の三代の治世は、その異名が象徴するように戦乱とはあまり縁もなく、平和な時代であったといえる。国際剣闘技大会が王の肝いりで開催され、史上初の
バリスタが敢行されたのもこの時代である。また狩王の異名どおり、
東ロンフォールが禁猟地に指定され、後に儀典化し
グィンハム・アイアンハートを退屈させる狩猟大会が盛んに行われていた。
クォン大陸を二分する
バストゥークとの間にも大きな戦役等はなく、国境線が安定し、国の活力が内部に向かっていった時代であった。
そうした中、王が始めたもの珍しい「茶道」という趣味が諸侯・騎士にまで広がっていったということは、武辺の国
サンドリアにも趣味や道楽に熱中する余裕が出てきたことの、ひとつの証だったといえる。ともあれ、空前といわれる紅茶ブームによって、茶葉の需給は逼迫することとなった。
今も昔も、茶葉の代表的な供給地といえば
サルタバルタ地方である。
紅茶ブームに
沸く当時の
サンドリア王国も、茶葉は
ウィンダス連邦からの輸入に頼るより他はなかった。
この時代の
ウィンダス連邦は、第四次
ヤグード戦役による国家転覆の危機を乗り越え、現代まで続く
五院体制を成立させている。国家としての輪郭が安定し、徐々に勢力を強める
ヤグード教団との戦役を戦いながらも、
ミンダルシア大陸を安定して支配していた時代である。また後の
ミスラとの同盟につながる南方政策に取り掛かったのもこの時代のことであり、海上交易による商業活動の黎明期を
ウィンダスは迎えていた。
一方
サンドリア王国との関係はといえば、先代旅王、先々代戦王の時代にそれぞれ一度ずつの出兵を迎え撃った経緯もあったが、狩王の時代に入って以降は大きな出兵もなく、平穏な関係を保っていたといえる。そうした中、
特産品である茶の輸出が盛んになったということは、二国間の対立の時代が過ぎ去り、国際的な貿易が活発になってきたことのひとつの傍証であろう。
また大量輸送の手段としては、海運に勝るものはない。この茶葉交易においても、主役は海運であった。そこで海運交易国家であり、かつ
サンドリア王国と関係の深い
タブナジア侯国の商人がここに登場してくるのも自然な成り行きであろう。
ウィンダスの茶葉は、
タブナジア侯国という迂回地を経由した三角貿易によって
サンドリアに輸出されていた。
サンドリアでブームを引き起こし、
ウィンダスの主要な輸出品目となったのは茶葉を発酵させた紅茶である。一方、
ウィンダスで庶民に至るまで親しまれていたのは、非発酵茶である緑茶であった。同じ茶葉を原料としているが、両者は違う飲料である。この違いもまた、後述の事件の原因となった。
サンドリア王国における異常な茶葉の需要を受けて、
ウィンダスにおける茶葉の価格は天井知らずの高騰を見せ、
ウィンダスの茶葉生産は一気に
サンドリア向け輸出にシフトすることとなり、茶葉の生産者はこぞって発酵茶である紅茶をつくった。茶園とその関係者は好景気に沸いたが、茶葉の高騰と非発酵茶である緑茶の生産量の減少は庶民の懐を直撃し、
ウィンダスの市井では徐々に怨嗟の声が高まっていった。
ウィンダスで生産される茶葉は片端から紅茶へと加工され、
サンドリア向けに輸出されていた。その極端な紅茶生産へのシフトは
ウィンダス庶民が緑茶を飲めなくなるほどであったが、依然として供給を上回る需要があったためか、それでもなお市場価格は上昇を続けたようである。
また、
ウィンダス商人と
タブナジアの商人の二者を経由することで中間マージンが二重に課されていたことも、高価格の原因であった可能性が高い。なぜなら、
タブナジア侯国の商人が独自の商品開発を目指して、それを成功させたからである。
タブナジアの商人は、独自に南方の諸国との契約に成功し、現地での茶葉の大量生産を行う体制を整えたのである。
ウィンダス商人の手を介さない分利益率もよく、市場価格でも
ウィンダス産茶葉を駆逐することができる商品が、
サンドリア市場を席巻することとなった。
南方産茶葉との競争に敗れた
ウィンダスでは、茶葉の価格は暴落した。市場には大量の紅茶在庫が溢れ、茶園の中には破産するものもあったという。
ウィンダスにおける紅茶バブルが弾けたのである。経済の法則に照らせば全く当然の帰結であり、バブルに踊った茶園経営者は正に自業自得というところであったが、
ウィンダス庶民にとってはとんだとばっちりであった。金づくで自分達の茶を奪われたと感じていた彼らの怨嗟の声は、ここに頂点に達していたのである。
また茶園で働いていた茶摘達も、急速に経営不振に陥った結果雇用条件は悪化し、倒産した茶園に務めていた者は失
業者となった。この茶摘達の不安・不満が最後の引き金を引いたのかもしれない。
ウィンダス庶民の怒りは、ついに爆発することとなった。
庶民には手の届かないような金額で茶葉を買い集め、端から
ウィンダスっ子の口に合わない紅茶にしておきながら、用がなくなれば見向きもしないで捨て置くような
サンドリアは、許すまじ!怒れる茶摘達、庶民達は抗議のために直接的な行動に出たのである。
「緑茶を知らない王に、紅茶を語る資格はない」
こう歌いながら市内を練り歩いた抗議者たちは
ウィンダス港にたどり着くや、
サンドリアの王室への献上品であった大量の高級茶葉を全てモモロ川に投げ込んでしまった。川は紅茶色に染まったというから、如何に大量の茶葉が生産・貯蔵されていたかが判る。また、発酵中の茶葉を投げ込んだという記録があることから、茶相場暴落の最中にも紅茶の生産は継続していたようである。緑茶を奪われたと感じた庶民の怒りの標的になってしまったのも、致し方ないことであろう。
この事件以来、モモロ川は
紅茶川と呼ばれるようになったのである。
事の顛末を伝え聞いた狩王ドルミリックは甚く反省した。抗議者の歌った詞を耳にしたのかもしれない。
ウィンダス産茶葉を高級茶葉とする布告を発し、大切にさせたという。
1773年12月16日に発生した、当時イギリスの植民地であったアメリカの都市「ボストン」の港にて、停泊中だったイギリス船に
インディアンに扮した一団が侵入し、積荷の紅茶葉の箱を次々と海に投げ入れた事件。
当時のイギリスは、フランスとの植民地争奪戦に膨大な国費を費やしており、財源確保のために、植民地に対して多額の税金を科していた。そのため、植民地民の不満は高まり、本事件に代表されるような植民地側の実力行使をともなった抵抗が起こり、やがてはアメリカ独立戦争へと繋がっていく。
なお、現在でもイギリスでは紅茶党が多いのに、アメリカではコーヒー党が大多数を占めるのは、この事件がきっかけであるという説もある。
また、本事件の名称にある「茶会」とは「Tea Party」を
日本語に訳したものであるのだが、ここで言う「Party」とはFFにおける「
パーティ」と同じく「徒党」や「集団」という意味であり、「茶会」とするのは誤訳であるとする見方もある。
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