長船派の祖とされる刀工光忠作の刀。
古備前派が長船に住し
名声を得たことにより、長船は隆盛を極めたが、鎌倉初期には則宗を祖とする福岡一文字派に取って替わられ、それ以降廃れていた。しかし、鎌倉中期になって福岡一文字が衰退すると、長船は再び息を吹き返し名匠を多く輩出した。光忠は古備前正恒の系統なので、初期は平安末期の古備前風の古雅な作風であったが、鎌倉中期頃には時代的要求から猪首切先の豪壮な姿となっていった。
古来重宝されてきた刀であるため、現存作は生ぶのものは少なく、磨上られたものが多い。尚、古備前派にも同名の光忠がいるが、別人と考えられている。
織田信長が所有していたが、秀吉を経て伊達政宗のものとなる。燭台切の名は、政宗がこの刀で家臣を斬った勢いで、そばにあった燭台も切れたことが由来。織田信長は華やかなこの光忠の刀を特に好み、二十数
振りも蒐集していたという。
後に政宗より水戸藩二代藩主徳川光圀に譲り渡された
燭台切光忠は水戸徳川家の家宝として代々受け継がれたものの、1923年(大正12年)の関東大震災にて所在不明となった、と考えられていた。しかし、2015年になりその現存が公表され、茨城県水戸市の徳川ミュージアムにて一般に展示公開された。
高温に晒された(罹災の際に火にまかれたのではなく、無事だった保管庫の扉を開けた際にバックドラフト現象で蒸し焼きになった。その為黒く煤けてはいるが、姿は元のままである。)その姿は黒く変色し、また金色の鈨(はばき)が融けて刀身に付着しており、刀剣本来の用をなさないのはもちろんのこと、美術品としての価値も残念ながら失われている。